ララとCWS~ララ物資とともに70周年を迎えて~

In search of the origin of LARA and CWS

ララ70周年記念フォーラム(2016年11月30日開催)

終戦後日本人を救ったララ物資

皆さんは、「ララ物資」「脱脂粉乳」と聞いてすぐに反応する世代の方々でしょうか?

戦後、このララ物資から始まった学校給食で脱脂粉乳を飲んでいた70代以上の方々からよくその頃の思い出話を聞いたことがありました。「ララ」の正式名称は、”Licensed Agencies for Relief in Asia”その頭文字をとって通称「ララ」と呼ばれていました。日本語では「アジア救援公認団体」となり、今から70年前(1946年)に米国大統領が公認した民間団体でした。第2次大戦後、飢餓と貧困で苦しむ多くの日本人を救った救援物資だったのです。

北米クリスチャンの善意によって支えられていたララ物資

これまで日本人の間であまり知られてこなかった史実なのですが、ララ物資は北米の日系人を含むクリスチャンからの寄付によって支えられていました。
ララ物資は、日本史上唯一のキリスト教の教派を超えた連携且つ官民協働による一大事業でした。ララ救援活動に参加した団体は、YMCA、YWCA、ガールスカウトなど主に米国キリスト教系奉仕団体計13団体であり、その中でもララ救援物資の半分相当量を出荷していたのがララと同じ年に設立された米国のCWS本部だったのです。

ララのおはなし

【ララ♡ストーリー⑩】ララを支えた三人の宣教師たち③その3

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G.Eバット博士ポートレート
(United Church Archives, Toronto. 76.001P/520. [Rev. G.E. Bott], n.d)

ララ5つの精神

ララには5つの基本精神がありました。ララ中央委員会実行委員長として、バット博士は次の5つの基本方針を立てました。

第一に、援助を必要としているあらゆる人々に「公平」に配分すること。

第二に、ララの実施に際し、外国人はできるだけ表に出ないこと。配分計画や実施の具体的な活動は日本政府に任せ、ララ三代表は、裏方に徹し、外国への物資要請やGHQとの難しい折衝にあたること。

第三に、ララ物資を受けることにより日本人が依頼心を起こしたり、自尊心を失うことがないように配慮すること。

第四に、官民協働によりこの運動を進めることへの配慮を行うこと。ララはどこまでも民間人の自発的な運動なのであり、アメリカ政府やGHQの力がなるべく加わらないように努めました。

第五に、彼が好きだった聖句に「受くるより与うるは幸いなり」(使徒言行録20:35)があります。いつの日か日本がみごとに復興を成し遂げた時に、今一度ララの精神を想い出し、今度は日本人が他国の困っている人々に同じような運動を行うようになって欲しい。国家、民族、人種、宗教、政治的イデオロギーなどあらゆる相違、対立を超えて世界の人々と協力し、分かち合う国民に成長して欲しいとの強い願いを日本人に寄せていたのです。

70年という時を経て、日本は復興を遂げ、今日では外国まで出かけていき、他国に支援を行うまでの経済大国に成長しました。ララの精神はその後の人道支援に受け継がれているのでしょうか?また国内外において今後どのような人道支援を行っていくべきでしょうか?来る11/30のララ70周年記念フォーラムでは、これらララの精神をふり返るとともに今日の人道支援のあり方を考える場を創りたいと考えています。
投稿日:2016年11月14日

【ララ♡ストーリー⑨】ララを支えた3人の宣教師たち③その2

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バット博士にMilk Fundへの寄付(小切手)を手渡すマッカーサー夫人
(写真提供:U.S.ARMY)

「ララの父」G.E.バット博士

ララ代表として、またララ中央委員会の委員長として名実ともに日本におけるララ救援事業の中心的存在だったバット博士は、ララの終結を目前にして過労により突然急逝されました。死を予知しながらも愛する日本のために自分の身を削り、最後まで日本全国を飛び回りララ救済事業のけん引役として務めた真の社会事業家でした。

ジョージ・アーネスト・バット博士は1892年、カナダオンタリオ州ブラックウォーター村の農家の熱心なメソジスト派クリスチャンの両親のもとに生まれました。メソジスト派の影響を受け、少年時代から社会奉仕活動に参加し、後に社会事業家となる素地を身に付けます。バット博士は、22歳の時にトロント大学ヴィクトリア神学校に入学。在学中に第一次世界大戦が勃発し、志願兵となって欧州戦線に送られ、戦争の悲惨さを経験しました。大戦終結後、しばらくイギリスにとどまり、神学と社会事業の二つを学ぶ意思を固め、ロンドン市内で社会事業とくに戦後の救済事業に強い興味を抱きました。この時の体験が、後年のララ事業に生かされることになるとは、本人には知る由もありませんでした。その後ヴィクトリア神学校に復学し、1921年に卒業後、開拓伝道で知り合ったエディス・クラークと結婚し、宣教師となって二人は来日します。

ララ以前の日本とのかかわり

来日後は、日本メソジスト教会が東京東部で行っていた社会事業の責任者として活躍しました。賀川豊彦とならび当時のキリスト教社会事業家の代表的人物として、「西の賀川、東のバット」と呼ばれ多くの日本人から慕われ、尊敬されました。バット博士は開戦後も他の宣教師が次々と引き揚げていく中で1942年まで東京に留まりましたが、戦況が悪化し、周囲からの説得に応じ、カナダへ帰国されました。しかしながら、帰国後も終戦後日本で行う救援事業計画を立て準備を進めていました。そんな中で、1943年にトロント大学から神学博士の学位が授けられました。

バット博士とマッカーサーとの親交

いくつかの資料によれば、バット博士とマッカーサーは親交があったようです。それは、マッカーサー自身が聖公会の熱心なクリスチャンだったせいかもしれません。戦後日本の民主化とキリスト教化を真剣に考えていたそうでマッカーサーは宣教師の日本赴任を歓迎していたそうです。UCCから入手した写真の中に、戦後、マッカーサー夫人から寄付の小切手を手渡されている写真がありました。ララ記念誌(1952年厚生省)によれば、「戦禍の生々しい日本へマッカーサーの招きに応じていち早く駆け付けた日本通の宣教師が二人あった。」という記述があります。その一人がバット博士でした。ララ発足よりも前に陸軍大佐の資格でやってきたバット博士は、軍用機で日本中を飛び回って実態調査を行い、本国に日本の惨状を報告し、強力な即時救援を求めました。後に、アメリカでララが発足し、彼は他の2代表と共に3人目の代表として選ばれ、彼の長い社会事業の実務経験をララ事業に活かすことになったのです。

投稿日:2016年11月7日

【ララ♡ストーリー⑧】ララを支えた三人の宣教師たち③その1

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オフィスのバット博士とローズ女史
(United Church Archives, Toronto. 2000.017P/3968. [G.E. Bott, Esther Rhoades], [195-?].)

ララとCWSをつないだキーパーソン

終戦後の混乱の中でララを通じて、戦勝国アメリカと敗戦国日本の友好を築いた立役者は、戦前から日本に宣教師として派遣され、生涯をかけて日本に奉仕した3人のララ代表です。その中でもララとCWSをつないだ重要人物が、ジョージ・アーネスト・バット博士でした。バット博士の存在を知ったのは、今年の初めに東京YMCA職員の方から紹介された1冊の本「愛わがプレリュード カナダ人宣教師G.E.バットの生涯」(新堀邦司1994年)がきっかけとなりました。私はこの本を読み、彼が日本側のララ中央委員会実行委員長をCWS日本代表として務めたことを知りました。

バット博士とCWSのつながりを求めて

「ララの参加団体にも入っていないカナダ合同教会の宣教師であるバット博士がなぜ米国の組織であるCWSの日本代表に任命されララの中心人物となったのか?」その問に対して、国内外の関係者から「それはバット先生が日本語を話し、戦前に日本で活動していたからだよ」と言われました。もちろん、その答えは間違っているとは思いませんでしたが、それだけではないCWSの設立にも関連する話なのではないかと直感しました。その答えは日本では見つけることができず、この夏のシカゴ会議の後に足を延ばしたトロントで見つけることができました。

バット博士を送り出したカナダ合同教会(UCC: United Church of Canada)と日本の教会との交流は19世紀にまで遡ります。同教会はその前身であるカナダ・メソジスト教会の頃から日本に向け多くの宣教師を派遣してきました。彼が理事を務めていた都内の東洋英和女学院を創設したのもこの教会です。CWS Japanも先の東日本大震災や熊本地震で同教会から多大なご支援をいただきました。この夏、それらのお礼や事業の進捗報告も兼ね、トロントにあるUCC本部を訪ね、アジア地区担当のパット・エルソンさんをはじめとするチームの皆さんに面会することができました。

実は、CWS本部関係者同様、UCC本部職員もバット博士の存在やUCCがララに関わっていた史実について私から問い合わせがあるまで知らなかったと開口一番に言われました。それは、支援していた北米側の教会があれだけの大事業に多大な貢献をしていながらも、その実績を後世に敢えて語り伝えようともせず、当時の記録は公文書館に静かに収蔵されていただけということを意味しています。また同時に支援を受けていた日本側でもララを支えていたのが数多くの北米の教会であり、信徒であることもこれまであまり語られることはありませんでした。そこにララの精神である公平・公正さ、ララに尽くした支援者側の日本人に対する様々な配慮や謙虚な姿勢が見られます。そんな話も弾み、パットさんと同僚の皆さんから歓迎を受け、トロントを離れる前日にカナダ合同教会の公文書館を訪ねることにしたのです。

カナダ合同教会公文書館にのこされていたもの

私の問いの答えを探すため、1日朝から閉館まで公文書館で過ごし、1945-1946年に書かれたUCC海外宣教委員会議事録、バット博士の手紙、報告書、伝記等々の発掘調査を進めました。最後に当たりをつけ、設立当時CWSを構成した一団体だったForeign Missions Conference of North America(北米海外宣教協議会)の議事録と手紙の中にその答えを見つけることができました。バット博士は開戦後も他の宣教師が次々と引き揚げていく中で、1942年まで日本に留まり、周囲からの説得に応じ、カナダへ一時帰国されました。しかしながら帰国後も終戦後日本で行う救援活動のための準備を進め、終戦した1945年12月には同協議会日本支援準備委員会によって日本への再赴任が正式に承認されました。

この北米海外宣教協議会はCWS創設時の構成団体の一つであり、CCRAはCWSが設立後、吸収合併した団体です。UCCはこの協議会に1930年代から加盟していました。バット博士が日本に再赴任した当初の所属はアジア救済教会委員会(CCRA)であり、北米海外宣教協議会よりカナダを代表し宣教師団派遣第一陣として日本に再赴任したのです。ララ発足に関わったのがCCRAであり、CWSを構成したのがCCRAと北米海外宣教協議会だったという経緯から、UCC-CWS-ララ-日本をつないだのはバット博士でした。

バット博士はララとCWS発足を待たずして、既に1946年3月に北米海外宣教協議会から任命を受け、日本に向けて出発していました。そして、1946年5月にCWSが組織化されてからは、所属がCWSに移り、給与や生活費もCWSから支払われるようになりました。それに対する彼の感謝を表す手紙も見つかりました。

投稿日:2016年11月4日

【ララ♡ストーリー⑦】ララを支えた三人の宣教師たち②

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ララ中央委員会三代表
(United Church Archives, Tronto. 2000.017P/3942.Directors of LARA,[195-?].)

ララ・プロジェクト成功の裏にあった三代表の連携協力

「ララ記念誌」(1952年:厚生省)に、「ララの特色の一つは、宗教をも越えた広い運動」であり、そして、この活動が上手くいった背景にはこの点もあるという記述があります。仏教もそうであるように、キリスト教にも様々な教派があり、それぞれ特異の信条と伝統があります。その違いを超えて、ララという人道支援のためにプロテスタントとカトリックから代表が任命され、こんなにも広範囲で長期間、連携協力を行ったというのは、現在の日本の状況を考えただけでも画期的で歴史的な史実だったのではないでしょうか。

この三代表はお互いを尊敬し、協力しながらアメリカ本国、GHQ、そして日本政府とも粘り強く交渉を続け、カウンターパートである日本の省庁と調整し、計20名から成るララ中央委員会を運営するというマルチタスクを見事にこなしていました。また、決してテーブル上の交渉事ばかりではなく、一般市民とも接触し、現場のニーズ把握にも努めていたのです。

教義的にも大きく異なる各教派を代表した三人でしたが、彼らは共通して日本語が堪能な親日家であり、戦前から永年に亘り宣教師として日本で奉仕活動をしていたという実績を持っていました。

ミカエル・J・マキロップ神父

ララ三代表に就任した初代のカトリック神父はミカエル・J・マキロップ神父でした。昭和21年6月21日、葛西嘉資(よしすけ)社会局長室に突然アメリカ人から、「ララという救済活動に関してお話したい」という連絡が入りました。そこで現れたのが、マキロップ神父とローズ女史の二人でした。二人のあまりの腰の低い態度と上手な日本語に加え、ララの吉報を聞いて葛西氏は三度ビックリしたそうです。

残念ながら、マキロップ神父は、ララ代表を1年だけ務め、二代目の神父に引き継いだせいか、情報がほとんど入手できません。ニューヨーク出身であることと、カトリック戦時救済奉仕団から派遣され、在日本メリノール会に属していた方で、日本事情に精通した活動家だったという記述しか見つけられませんでした。ただ、この日記冒頭の、CWSがカナダ合同教会から入手した三代表の写真に写っている方は、マキロップ神父ではないかと思われます。

ヘンリー・ジョセフ・フェルセッカ―神父

マキロップ神父の後任として、1947年にカトリック戦時救済奉仕団の日本代表兼ララ代表に任命されたのがヘンリー・ジョセフ・フェルセッカー神父でした。同神父は1931年にニューヨークのメリノール神父学院を優秀な成績で卒業した直後、若くして宣教師として日本に就任しました。第二次大戦勃発によりやむを得ず帰国し、メリノール神学校教授職に就いたにも関わらず、戦時中、日系人が収容されている窮状を見るに忍びず、ワイオミング州ハートマウンテン転住地のカトリック司祭を自ら志願し、日系人のために物心両面の支援をされていたそうです。

終戦翌年の1946年3月、率先して日本に再帰任し、京都聖フランシス教会にあって、窮乏のどん底にあった関西地区の人々の救済に尽力されました。翌年、ララ代表に任命されたと同時に、在日本メリノール会神父の長老という栄誉ある役割も担うことになりました。

この頃の日本では、過労と心労と栄養不足により、肺結核をはじめとする病者が増加していたのですが、医薬品が極端に不足していました。そこで、フェルセッカ―神父は本国に交渉し、当時の最新かつ高価な米国製医薬品(ズルフォン剤、ペニシリン、ストレプトマイシン等)を大量に取り寄せ、無償供給のために尽力されました。また、さらに取り寄せただけでなく、実際の使用法の指導にもあたり、日本での製造についても尽力されました。ララ事業終了後の1952年、三代表に勲四等瑞宝章が授与された時、神父はあまりの感激に「わたしは、宣教師として神に命じられ、愛する日本のために当たり前のことをしただけなのに・・・」と目頭を抑えていたそうです。

フェルセッカ―神父は、1996年に全国社会福祉協議会が主催した「ララ物資50周年感謝の集い」出席のため、当時91歳という高齢にも関わらず再度来日されました。当時の感謝会の様子を全社協にお願いしてビデオを見せていただいたのですが、これらのララの思い出を日本語で語られていた神父の姿がとても印象的でした。

投稿日:2016年10月14日

【ララ♡ストーリー⑥】ララを支えた三人の宣教師たち①

Esther Rhoads in Japan in 1949. relief work after World War II.

昭和24年、乳児院のエスター・B・ローズ女史
(©archives of the American Friends Service Committee.)

ララに魅せられて

そもそも私が「ララ物資」という70年前の古い話に関心を持ってしまった理由の一つには、縁あって勤務している自分の団体が、あの有名なララ物資を送り出していた団体だったから。今までどれだけ多くの人に「ララなんて知っている人そんなにいないよ」と言われたことか。なぜ自分がララを知っていたのか?もう今となっては全く思い出せないのですが、これまで国際協力や人道支援に携わってきた人生のどこかで知ってしまった、所謂「人道支援の先がけ的史実=ララ」に不思議な憧れを感じていました。

自己紹介の時にはたいてい「あのララ物資を送り出したCWSです」と言っていました。そんな時、一番反応して下さったのがYMCAのスタッフの方々でした。そして、元YMCAの職員の方が執筆された「愛わがプレリュード」(1994年:日本基督教団出版局)という本を紹介されました。もしも、この本に出会わなければ、おそらく、こんなにもララにのめりこむことはなかったし、たとえどんなに本部にプレッシャーをかけられても70周年記念イベントを開催してやろうなんて気持ちには決してなれなかったのではないかと今思います。実は、この本の著者も冒頭で似たようなことを書いてらっしゃいます。著者は神田の古本市でたまたま見つけた本を読んで、運命的な出会いを感じて執筆してしまったそうです。

私はそこまで追求できるかどうか疑問ですが、今なら著者に共感できます。なぜそこまでハマってしまうのか?それは、あれだけの大事業だったわりにはあまりにも資料が少ないこと、そしてあまりにもその史実が社会に認知されていないことです。最初は、上記の本1冊からスタートしました。そして、本の中に登場する方々のことを調べ始め、もちろん多くの方々はもうお亡くなりになられていますが、それでも糸を手繰り寄せるように、国内外から資料を集め、色々な方々を紹介されお会いしてきました。そんな中で、驚くほど色々なところで色んな方々がララを通じてつながっていることが分かりました。

私を最も駆り立てたのは、ララ物資救援事業を陰で支えていたララ三代表のことがあまりにも(国内外の)人々に知られていないことが分かり、今伝えなければ埋もれてしまうとの思いからです。

エスター・B・ローズ女史

ララ三代表の中で最も日本人に知られているのは、もしかしたらローズ女史かもしれません。ローズ女史は港区にある普連土学園http://www.friends.ac.jp/の、沿革紹介ページに掲載されているほど、その生涯を教師として普連土学園に捧げた方であり、さらには、戦後、現在の天皇皇后の英語教師もしていたという方です。

「ミス・ローズ」という名で親しまれていた彼女は、1896年フィラデルフィア近郊で生まれました。クエーカー(キリスト教フレンド派)教徒であり、初来日は1917年(大正6年)でした。当時21歳の若さで「東京フレンド女学校」(現・普連土学園)の教師として来日して以来35年間、日本で女子教育に身を捧げ、後には「普連土学園」の園長も務められました。

クエーカーは信仰あつく平和主義者であり、ミス・ローズは戦争中に米国が日本の都市を爆撃したのを知って、国務省へ爆撃即時中止の嘆願に行ったという勇気のある女性だったそうです。そして、戦争が悪化していく中で、極端な排外思想のために日本に留まることができず、アメリカに帰国しました。それはアメリカ国内でも同じことで、真珠湾攻撃以来、一般米国人の反日感情が悪化していました。そんな中で、彼女はアメリカ・フレンズ奉仕団職員として終戦まで強制収容所につながれていた多数の日系人の世話を引き受けていました。

戦争も末期に入った頃、米国各地の各教派の中に、戦後の対アジア支援の準備を早くしなければという声が出始めました。その空気を最も喜び東奔西走した彼女が、フレンド奉仕団の代表として、またララ代表として再来日を任命されたことは自然なことでした。

戦後、この重責を負って再来日した彼女は、先ず日本を隈なくまわり、その悲惨な状況を調査ました。そして多くの人々の真に必要とするものをよく心得た上で、ララ代表兼ララ中央委員としての活動を開始しました。

ミス・ローズは当時の写真からも分かるように大柄の女性でした。日本に関する長い知識と経験、戦後の日本の実情に対する深い認識と同情、そこに女性らしい細やかな心遣いを持って、多くの困窮者に対して理解のある救済計画を立てました。その上、度々、母国に帰っては日本の実情を各地で講演し、救援物資を少しでも多く、長く送るよう依頼して廻るという、今で言うファンドレイジングを行っていたそうです。

ミス・ローズは普連土学園の教員としての仕事をする傍ら、ララ代表の仕事もこなすという二足の草鞋を履いての活動でした。このように日本における彼女の長年の功績が称えられ1960年には勲三等瑞宝章が贈られました。また、日本赤十字社も彼女に「最高栄誉賞」を贈りました。

投稿日:2016年10月11日

【ララ♡ストーリー⑤】ララ救援物資はどのように配分されていたのか?

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東京中野の戦争未亡人の母子寮に衣服と布類が配給された。(昭和23年3月4日 ~ 24年3月4日)
(©United Church Archives, Toronto. 2000.017P/3954. On March 4 clothing and yardgoods were distributed, [195-?].)

ララ配分計画

ララ三大モットーである「公平」「効果的」「迅速」に則った救援物資配分の裏には、終始一貫したララの基本的な考え方がありました。「ララ記念誌」(1952年厚生省)によれば、「配分は、国籍・宗教宗派・政党政派に捉われず必要性を基準として公平に行う」ことが目標に掲げられています。

先ずララ中央委員会で具体的な配分方針を決定し、厚生省はこれに従って、各都道府県を通じて団体または個人に配分していました。配分計画の骨子は、第一便が到着する3か月前にGHQの日本政府に対する覚書の中に、贈られる物資の①受領、②保管、③配分・輸送、④警備にいたるまで計画が記され、これらのプロセスに対して日本政府の責任の所在が明示されました。

ララ物資第一便はクリスマスプレゼント

ララ物資第一便は1946年11月30に横浜港に到着しました。その陰には、第一便を何とかクリスマス前に届けるようにと、急いで物資を集めた北米側の温かい想いがありました。そして、ララ物資第一便の配布先は到着前に既に決まっていました。

ララ物資第一便の配分は、当時一番困窮していた乳児院、児童養護施設、結核・ハンセン病などの療養施設、養老院がトッププライオリティに挙げられていました。また同時に広島、長崎の困窮者にも特別の配慮が払われました。第一便には、乳幼児約3000人分のミルクの他に、子供達、療養患者、障がい者、高齢者向けの食糧品や衣類が入っていたそうです。

その後、救援物資の量が増えるのに従い、その対象は年々広げられ、やがて、ご存知「学校給食」にも配分されるようになり、戦後の学校給食を再開させる発端になりました。

ララ物資は昭和のプロジェクトXだ!

ララ物資の配分はとてもシステマティックに行われました。先ず、戦争被害者の数に基づいて、日本の都道府県はグループAからグループDまで4つのグループに分けられました。

グループAには、広島、長崎の他、東京や大阪など戦争で最も多くの被災者を出した都道府県が含まれていました。これとは逆にグループDは、戦争の被害が最も少なかった県が入れられました。記録によると、第一便の配分割り当て率は、東京地区35%、横浜8%、名古屋8%、京都6%、大阪18%、神戸6%、広島7.5%、長崎2.5%、その他14%とされました。

ララ三代表は、第一便到着1週間前に配分予定地に足を運び、最終的な現地調査を行いました。ローズ女史は、東京・横浜を担当し、バット博士は、名古屋・京都・大阪・神戸を担当しました。このようにして、現地の関係者と密に打ち合わせを行った上で日本全国に届けられていたのです。一人でこれだけ広範囲のエリアを担当し、各地の関係者と連携をとるということは、今ではメール1本で済むようなことでも当時はどれだけの時間と労力を費やしていたことか。想像を絶するようなプロジェクトXだったのではないでしょうか?

【ララ♡ストーリー④】ララはどのように運営されていたのか?

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ララ中央委員会で発言するバット博士
(©United Church Archives, Toronto. 2000.017P/3944. Dr. G.E. Bott addressing meeting of LARA Board, [between 1949 and 1951].)

「ララ」の裏方

戦後の飢餓と困窮の中にあった日本国民を救った「ララ」。その名前は有名になっても、その背後で、ララ救援運動に参加した北米市民の献身的な奉仕があった事実はほとんど知られることはありませんでした。大体の日本人は、「ララ」の名の下で贈られた物資は占領軍からの供出品ぐらいにしか考えていなかったそうです。まして、ララの陰には3人の裏方に徹した外国人宣教師の働きがあったことなど、一般市民には知る由もありませんでした。

ララ三代表

日本側でのララ物資の受領と配分については、1946年~1950年までは、日本政府(厚生省社会局)が連合軍最高司令部(GHQ)の公衆衛生福祉局の監督のもとに配給業務を行っていました。その日本政府とGHQの間に立って調整役を果たしたのが、「ララの立役者」であるバット博士、ローズ女史とマキロップ神父(1947年にフェルセッカー神父に交代)という、日本を知り尽くしていたベテラン宣教師の3人であり、この3人がララの代表になりました。

このララ3代表が日本側の受け入れ体制づくりを進めました。3人はGHQと交渉した結果、ララ3代表、GHQ公衆衛生福祉局と厚生省(社会局)の3者によってララ救援事業を進めていくことになりました。

1946年6月下旬、ララ代表は厚生省を訪問しララ計画基本構想を打ち明けましたが、その前より3代表はGHQとの折衝を続け、GHQとの話がまとまった時点で、この計画を厚生省に持って行ったのです。

ララ中央委員会の発足

ララ救援事業の具体的な役割分担は、アメリカから日本までの救援物資の輸送を米軍が引き受け、保管と配送は日本の厚生省と運輸省が担当、物資の配分方針・計画立案については、ララ3代表を中心とした「ララ中央委員会」を設置し、月1回の委員会で具体的に検討していくことにしました。これにより、ララ3代表とGHQを含む8名の外国側代表者に加え、日本側の委員32名によるララ中央委員会が1946年9月に結成されたのです。

こうして、民間の手によって集められたララ物資は「公平・効果的・迅速」をモットーに国内外における見事な官民連携によって日本全国の人々の手に送られたのです。

投稿日:2016年9月26日

【ララ♡ストーリー③】ララって何?

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昭和22年3月、ララ参加13団体への感謝を表すひなまつりの飾り
(©archives of the American Friends Service Committee.)

「ララ物資」の「ララ」とは何でしょうか?

日本語的にはちょっと可愛らしい響きですが(偶然にも昔飼っていた犬の名前もララでした)、ララは「L.A.R.A.」であり、正式名称である“Licensed Agencies for Relief in Asia”の略称になります。日本語では、「アジア救済公認団体」と訳されています。「公認」というのは、第二次大戦直後のアメリカでは、海外救援活動は大統領によって公認された団体だけが実施できたという経緯があったためです。また、「アジア」というのは、日本と朝鮮がララの支援対象国となっていたからです。

アメリカでは、戦前から海外救援活動に関心のある宗教団体、奉仕団体、その他の民間団体は、American Council of Voluntary Agencies for Foreign Service, Inc.(海外事業運営篤志団アメリカ協議会)に属していました。この組織は、その頭文字をとってACVAFS(アクヴァフス)として知られ、ララに参加した全ての団体は、このアクヴァフスの会員名簿に入っていました。

ララの発端

ララの発端は、1946年3月15日に、このアクヴァフスの中に日本委員会が設置されたことから始まります。その時に集まった団体は4団体。CWSの前身団体の一つであった①Church Committee for Relief in Asia(アジア救済教会委員会)、②American Friends Service Committee(米国フレンド奉仕団)、③Presbyterian Board of Missions(長老教会伝道事業団)そして、④Catholic War Relief Service(カトリック戦時救済奉仕団)でした。この中の3団体は、後に日本でララ物資を配布したララ中央委員会3代表を輩出するなど、まさにララの屋台骨となる中心団体となったのです。

国際的民間救援組織の誕生

その数週間後、4月1日にアクヴァフスの会議に出席していた7団体で、ララの原型が結成されたと言われています。この時点の組織名称は、Association of American Voluntary Relief Agencies Licensed to Operate Japan(日本救済公認アメリカ篤志団体協会)という、長い長い名前でした。

この会議以降も参加団体は増え、団体間の吸収合併などを経て、アメリカの代表的な労働組合までが参加した、以下13団体による組織が発足しました。正式には、4月8日のアクヴァフスの日本委員会と朝鮮委員会の合同会議の席上で、頭文字をとって「ララ」と改称されました:

・Church World Service(教会世界奉仕団)
・American Friends Service Committee(米国フレンド奉仕団)
・Catholic War Relief Service Committee(カトリック戦時救済奉仕団)
・Salvation Army(救世軍)
・YMCA
・YWCA
・American Federation of Labor(アメリカ労働総同盟)
・Congregation of Industrial Organization(産業別組合会議)
・Brethren Service Committee(兄弟奉仕委員会)
・Girl Scout(ガールスカウト)
・Lutheran World Relief(ルーテル教会世界救援団)
・Uniterian Service Committee(ユニテリアン奉仕委員会)
・Christian Science Service Committee(クリスチャンサイエンス奉仕委員会)

このようにして、大統領公認の国際的な民間救援組織が70年前に誕生したのです。
 
投稿日:2016年9月20日

【ララ♡ストーリー②】ララ物資とは?

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昭和21年11月30日、サンフランシスコから横浜に到着したララ第1号船「ハワードスタンズベリー号」とララ中央委員会委員・関係者
(多々良紀夫著「救援物資は太平洋をこえて:戦後日本とララの活動」より)

「どのようなものが」「どうやって」送られてきたのか?

さて、「ララ物資」とは言っても、一体何が日本に送られてきていたのでしょうか?
ララ物資を受け取っていた側、当時子供だった方々に尋ねたところ、主に食料・衣類・医薬品・日用品・学用品で、それ以外にも生きた山羊や牛も送られてきたそうです。そして、ララ物資の受け取り先となっていた養護施設の倉庫は、当時の子供達にとって「宝の山」だったそうです。

ララ物資の出荷量については、様々な記録があるようで、日本政府が所蔵する記録と、送り出した側である米国側の記録とでは、数字が異なるようです。米国側の記録では、1946年~1952年までの間に日本にララ物資を輸送した船は合計458隻。これは、毎月約7隻の船が、救援物資を積んでアメリカのどこかの港から日本に向けて出港していた計算になります。

記録によれば、ララ第1便であるハワード・スタンズベリー号に積載された物資は、CWS以外に米国フレンド奉仕団、兄弟奉仕委員会の3団体から寄せられたとあります。ここで注目すべきなのは、第1便の貨物の多くは、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどの日系人グループが、CWSとフレンド奉仕団に託した献金によって購入された物資だったことです。

ララ物資はどのようにして集められたのか?

一体、これだけの量の救援物資が、これだけの長期間、全米からどのように集められていたのか。これは謎でしたが、先日入手した、1951年1月に厚生省社会局から刊行された「ララ救援物資について」によって、CWSを含めた主な団体のララ物資収集方法が分かりました。

先ずCWSの物資収集については、「当時、シカゴに本部を置いていたCROP(Christian Rural Overseas Program)によって、各農村から集められた小麦、野菜、油、穀類、シロップ、豆類、その他農産物の大部分はCWS又はルーテル救済団を通じて日本へ送られた」という記述を見つけました。(やっぱりそうだったんですね!)その割合は、ララ物資総量の55%~60%を占めていました。

フィラデルフィアに本部があった米国フレンド奉仕団の物資収集は、食料・衣類・学用品・種子・布地などを主とし、これは物資総量の約25%の割合を占めていました。フィラデルフィア、ケンブリッジ、ニューヨーク、シカゴ、シアトル、サンフランシスコやロサンゼルス他の都市部の同奉仕団事務所が寄付を受け付けていました。

ニューヨークに本部があったカトリック戦時救済奉仕団は、医薬品・チョコレート・ミルク・布地・衣料品等を、各地のカトリック教会を通じての寄付で集めました。その割合は、物資総量の約10%を占めました。

その他ルーテル世界救済団とメノナイト中央委員会からは、ララ物資総量の約15%が寄付され、前者からは小麦と衣類、後者からも小麦とクリスマス小包が入っていたとのことです。また、アメリカ合衆国以外では、カナダの教会団体、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、チリ、メキシコ等各地の在留邦人からも、食料・衣類・毛布などが、何れもララを通じて日本へ送られたとのことです。

それにしても、このようにアメリカ大陸中から集められた物資を、どのようにしてとりまとめて各地の港に集めたのでしょう?またこれも謎です。相当な規模のロジスティクスと調整作業が要求されたことが想像できます。ララの本部はニューヨークにありましたが、残念ながら、今のところララ本部の資料は入手できていません。一体何人のスタッフでこれだけの大事業を回していたのでしょうか?

投稿日:2016年9月5日

【ララ♡ストーリー①】ララの始まりはCWSの始まり

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70周年の年明け

2016年の年明けと同時にCWS本部CEO(最高経営責任者)のジョンから「今年はCWS設立70周年である」という一斉メールがスタッフに届きました。CWS70周年、それは敗戦後、飢餓と貧困で苦しむ多くの日本人を救い、日本の学校給食を再開するきっかけになった「ララ救援活動」の70周年でもあります。ララ物資はケア物資(米国のCAREという民間団体から1948年~1955年までに贈られた救援物資)と並び、北米から日本へ贈られた救援物資でした。1946年からララ終了時の1952年までに贈られた救援物資総量は1万6700余トン、当時の邦貨で400億円相当であると言われています。

そのララ救援活動に最終的に参加した団体は計13団体。主要な参加団体である米国のキリスト教系奉仕団体の中でララ救援物資の半分相当量を出荷していたのがCWSでした。なぜか?CWSは複数の米国キリスト教系組織によって発足した団体であり、その前身の1団体であったChurch Committee for Relief in Asia (CCRA:アジア救済教会委員会)などは、50近い宗教団体が加盟する超宗(教)派の組織だっただけに、全米の加盟教会から献金を集めることができたからなのです。

CWSの始まり

CWSは、ララが組織化された翌月1946年5月に、ララ発足に関わった前記のCCRAを吸収し、Federal Council of Churches(教会連邦協議会)、Foreign Missions Conference of North America(北米海外宣教協議会)、American Committee of the World Council of Churches(世界教会協議会・米国委員会)など世界的救済活動を行っていた3団体によって設立されました。名称をChurch World Service(CWS教会世界奉仕団)とし、第二次大戦の被災国救済と再建活動を調整することを目的として多数のプロテスタント教会を傘下に収め設立されたので、ララ救援活動において多大な勢力を持っていました。

残念ながら70年という時を経て、今日のCWS米国本部関係者の間で、このララのことを知る者は生存していません。また当時の歴史史料が保存されていないことから、CEOのジョンでさえ「ララがなかったらCWSは発足しなかった。」という史実を知りませんでした。様々な史料を読み解く中で、大戦があってララの前身となる委員会が発足し、終戦後ララが組織化され、それらの動きの中でCWSが創設されたというこの流れは、偶然ではなく必然だったと考えられます。

CROPとララ

この7月、CWS本部が主催するCROP US Summer GatheringというCWSのファンドレイジングスタッフ・ミーティングがシカゴで開催されました。それはアメリカ各地でCWSのためにファンドレイジング活動をしている30名近くのファンドレイザーがシカゴに会するというものでした。CROPとは、Christian Rural Overseas Programの略称です。CWS設立当初(1946~)に第二次大戦の被災者や難民の飢餓救援のために米国各地の農家が穀物を供出し、国中の穀倉地帯からFriendship Trainという名の汽車が回って集め、海外に食糧を送り出したことから始まったファンドレイジング運動です。もちろん今日では食糧ではなく募金活動になりましたが。このCROP運動とララは同時期に開始されました。この時のCROP運動で集められた食糧が日本にも輸送されていたのかもしれません。

投稿日:2016年8月29日

【ララ日記】ララの証言者、小川はじめさんにお会いして。

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今では知る人ぞ知る「ララ物資」ですが、ララ物資には後継事業があった事実については更に知る人が限られているかと思います。ララ物資による救援事業は、1946年から始まり1952年6月に幕を閉じました。ところがララが終了しても日本国民の救済ニーズがなくなった訳ではありませんでした。そこで、当時の日本政府やその他関係者の要請に応えてCAC救援活動が翌年(1953年)3月からララに継いで新たに開始されました。

CACとは、ララ代表団体であったCWS、American Friends Service Committee(米国フレンド奉仕団)、そしてCatholic War Relief Service Committee(カトリック戦時救済奉仕団)の頭文字からCACと呼ばれました。この3団体がララに引き続き、救援物資の調達と輸送を行い、物資配分については、全国社会福祉協議会が担当する仕組みになっていました。CAC救援活動は、10年間続いたそうです。

ララ中央委員会委員長を務めたバット博士は米国のCWSから任命を受け、1946年にララ代表であると同時にCWS日本代表に就任しました。それがCWSの日本での活動の始まりになります。その時のCWS日本事務所は、「CWS日本委員会」と呼ばれていましたが、ララ終了とともに、日本委員会は解散し、「日本国際キリスト教奉仕団」(Japan Church World Service)という現地法人が誕生しました。

今回、その時代を知る日本キリスト教奉仕団元理事の小川孟さんにお会いしました。小川さんは1925年生まれ。10代に戦争で中国に渡り、終戦翌年に復員し、早稲田大学理工学部に入学されました。在学中、新宿区の戸山ハイツに住み、米国フレンズ奉仕団(AFSC)が運営していた戸山のネイバーフッドセンターに勤務されました。大学卒業後、一度は電機会社に勤めたものの、AFSCのローズ女史に勧められ、社会福祉の世界にまた飛び込むことになったそうです。

社会福祉の仕事を始めるにあたり、小川さんは明治学院大学に編入し、社会福祉の勉強をしながら、AFSCが運営する世田谷のネイバーフッドセンターに勤務しました。明治学院大学在学中に、小川さんは後に横須賀基督教社会館館長に就任した阿部志郎先生に師事していました。卒業を迎え、阿部先生が理事を務めていた当時の日本国際キリスト教奉仕団(現在の日本基督教奉仕団)での勤務を強く勧められ、相談したローズ女史は大変喜んで賛成してくれたそうです。

そして最後にもう一つ小川さんから興味深いお話をうかがいました。ジャーナリストの故筑紫哲也氏がAFSCに小川さんが勤務されていた頃、AFSCのワークキャンプで奉仕していたそうです。筑紫さんが早稲田大学卒業時に書いた「飛ぶ鳥、後を濁すの弁:ワークキャンプ批判」という小論文(?)も見せていただき、ちょっと読んでみたのですが、正直、何とも理屈っぽい読みにくい文章でした(笑)小川さん曰く、学生時代にワークキャンパーとして汗を流し、時間を提供していた経験が筑紫さんのその後のジャーナリストとしての正義感の源になり基盤となっていたのではないかと。

投稿日:2016年11月14日

【ララ日記】普連土学園に行って来ました。

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港区にある普連土学園に行って来ました。ララ代表の一人であるローズ女史が教員(後に校長)を務めていた学校です。こちらはローズ女史が所属していた米国フィラデルフィアのフレンド派(クェーカー:キリスト教の一派)夫人伝道会によって1887年(明治20年)に設立された女子校です。こちらの学校にはララ物資の品があるという情報が入り、「稲造精神とララ物資」(新渡戸基金)の著者である同校の大津光男理事にお話を伺ってきました。

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確かに普連土学園には、ララから寄贈された毛布、給食用のアルマイトの食器、鉄製の折り畳み椅子(写真)などが現在も保管されていました。先日、CWSがアメリカ・フレンズ奉仕団から入手した写真の多くはこちらの学校からアメリカに渡っていたのだそうです。この度、大津先生のご厚意により、10枚ほど画像データをいただきました。11/30のフォーラム会場で上映するスライドショーに活用させていただきます。
投稿日:2016年10月14日

【ララ日記】横須賀基督教社会館に撮影に行ってきました。

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10/7(金)に現在制作中のララ紹介動画の撮影のため、横須賀基督教社会館に行って来ました。

こちらもララの父であるG.E.バット博士によって創設された施設で今年70周年を迎えます。現在の社会館の場所は、戦時中は日本海軍の士官宿舎兼集会場だったそうですが、戦後に米軍海軍基地が開設された際にはダンスホールになったそうです。ところが、風紀を害すること甚だしいという理由から閉鎖され、1946年に基地司令官が、キリスト教会が建物をコミュニティセンターとして使用するよう要請したそうです。

そこで、ララ中央委員長だったバット先生は米軍から施設を引き継ぎ、救済事業の一環として、CWS本部に財政支援を要請しました。その結果、地域のための社会福祉センターとして社会館が創設されたのです。この時にバット先生が財政支援をCWS本部に要請している手紙も今回米国から送られてきた資料の中にありました。

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初代館長には、バット先生からの要請を受けてアメリカ人のエベレット・トムソン氏が就任しました。私たちの背後に写っている絵画はトムソン夫妻です。この度、トムソン氏の後を継いだ2代目館長の阿部志郎先生と3代目の岸川館長にインタビューにご協力いただきました。阿部先生は1926年生まれ、今日本でバット先生と面識のある最後の方かもしれません。20代の頃に日本でただ一人CWSから奨学金を受けて米国の神学校に留学された方です。その阿部先生にララやバット先生への想いを語っていただきました。

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社会館の向かい側(国道の向こう)に建てられた田浦教会は、当初社会館に併設されていました。初代館長のトムソン氏の意向により、信仰に関わらず地域に奉仕する施設を目指して教会と分離させたそうです。

このように、ララ物資も社会館も、終始一貫して宗教の区別なく、地域のため、全ての困窮の中にある人々を救済するという方針の下で福祉事業が行われていたのです。

投稿日:2016年10月11日

【ララ日記】昭和館主催:ララ物資展に行ってきました。

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この連休中、九段下にある昭和館でララ物資の写真展が始まり、早速行ってきました。こちらで写真展が企画されるという話は以前から聞いており、7月にララの情報収集のためにカナダへ向かう際、担当職員の方々にも連絡をとって、問い合わせに応じていただきました。

こちらの写真展では46点の写真が展示されており、ララ関連の写真は全てアメリカのフレンズ奉仕団(American Friends Service Committee)から提供されているものでした。フレンズ奉仕団は、CWS同様、70年前にララに参加した13団体の1つであり、同奉仕団のエスター・B・ローズ女史はCWSのバット博士とともにララ中央委員会の代表を務めた中心人物のお一人です。ローズ女史も戦前から日本に赴任し、教師という立場で女子教育に尽力されました。戦後はララ代表として日本に再赴任され、バット博士同様、生涯を日本に捧げた方です。

今回展示されている写真の中にララ物資を輸送するトラックの写真があり、その荷台に何とChurch World Serviceの古いロゴマークが!現在、昭和館で教えていただいたアメリカのフレンズ奉仕団にこの写真が入手できないか問い合わせ中です。

昭和館では、他にもララを含め、この時代の膨大な数量の写真・映像・資料がアーカイブされており、その多くは米国立公文書館をはじめとする海外の機関から入手されたものだと知り、大変驚きました。

アプローチは異なりますが、ララ物資の遺産を発掘する団体が他にもあったんですね♡

投稿日:2016年9月17日

【ララ日記】バット博士記念ホームを訪ねて

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今日は「ララの父」と呼ばれたバット博士(ララ物資中央委員会実行委員長・CWS日本代表)の創設されたバット博士記念ホームを訪ね、町田市に出かけました。宮本園長のお部屋には今でもバット博士の写真が飾られ、博士の遺志を受け継いで園を運営されているそうです。

投稿日:2016年8月10日

【ララ日記】JICA横浜海外移住資料館にて

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JICA横浜海外移住資料館学芸員の小嶋さんと。
現在CWS Japanでは、ララ物資とCWSの70周年記念事業(11/30)の準備を進めています。戦後多くの日本人を救ったララ物資の多くは北米クリスチャンの善意による贈り物でした。そのララを支えた13団体(アメリカ)の一つが当時のCWS本部だったのです。
ララ物資は横浜港に荷揚げされていました。また、ララ物資はアメリカ大陸に渡った日系移民も寄付を捧げていたことから、JICA横浜海外移住資料館がその史実を調査しており、一昨年は同館にてララ物資展が開催されました。また、今年は70周年を記念して、南米(ブラジル、メキシコ、アルゼンチン)でも現地の日系移民関係者から協力を得てララ展を開催しているそうです。そこで、今回、同館との情報交換と今後の協力の可能性を話し合うため、横浜に行ってまいりました

投稿日:2016年8月9日

【ララ日記】横浜新港:ララの碑にて

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ララ物資が荷揚げされた横浜港にララの碑があります。
11/30開催予定のララ物資70周年記念事業準備でJICA横浜海外移住資料館を訪問しました。
同資料館前にある赤レンガ倉庫のすぐ裏手にある埠頭にその記念碑がありました。

投稿日:2016年8月8日