26 9月
  • By CWS JAPAN
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ララはどのように運営されていたのか?

「ララ」の裏方

戦後の飢餓と困窮の中にあった日本国民を救った「ララ」。その名前は有名になっても、その背後で、ララ救援運動に参加した北米市民の献身的な奉仕があった事実はほとんど知られることはありませんでした。大体の日本人は、「ララ」の名の下で贈られた物資は占領軍からの供出品ぐらいにしか考えていなかったそうです。まして、ララの陰には3人の裏方に徹した外国人宣教師の働きがあったことなど、一般市民には知る由もありませんでした。

ララ三代表

日本側でのララ物資の受領と配分については、1946年~1950年までは、日本政府(厚生省社会局)が連合軍最高司令部(GHQ)の公衆衛生福祉局の監督のもとに配給業務を行っていました。その日本政府とGHQの間に立って調整役を果たしたのが、「ララの立役者」であるバット博士、ローズ女史とマキロップ神父(1947年にフェルセッカー神父に交代)という、日本を知り尽くしていたベテラン宣教師の3人であり、この3人がララの代表になりました。このララ3代表が日本側の受け入れ体制づくりを進めました。3人はGHQと交渉した結果、ララ3代表、GHQ公衆衛生福祉局と厚生省(社会局)の3者によってララ救援事業を進めていくことになりました。1946年6月下旬、ララ代表は厚生省を訪問しララ計画基本構想を打ち明けましたが、その前より3代表はGHQとの折衝を続け、GHQとの話がまとまった時点で、この計画を厚生省に持って行ったのです。

ララ中央委員会の発足

ララ救援事業の具体的な役割分担は、アメリカから日本までの救援物資の輸送を米軍が引き受け、保管と配送は日本の厚生省と運輸省が担当、物資の配分方針・計画立案については、ララ3代表を中心とした「ララ中央委員会」を設置し、月1回の委員会で具体的に検討していくことにしました。これにより、ララ3代表とGHQを含む8名の外国側代表者に加え、日本側の委員32名によるララ中央委員会が1946年9月に結成されたのです。こうして、民間の手によって集められたララ物資は「公平・効果的・迅速」をモットーに国内外における見事な官民連携によって日本全国の人々の手に送られたのです。

 

写真:ララ中央委員会で発言するバット博士 (©United Church Archives, Toronto. 2000.017P/3944. Dr. G.E. Bott addressing meeting of LARA Board, [between 1949 and 1951].)