30 9月
  • By CWS JAPAN
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ララ救援物資はどのように配分されていたのか?

ララ配分計画

ララ三大モットーである「公平」「効果的」「迅速」に則った救援物資配分の裏には、終始一貫したララの基本的な考え方がありました。「ララ記念誌」(1952年厚生省)によれば、「配分は、国籍・宗教宗派・政党政派に捉われず必要性を基準として公平に行う」ことが目標に掲げられています。先ずララ中央委員会で具体的な配分方針を決定し、厚生省はこれに従って、各都道府県を通じて団体または個人に配分していました。配分計画の骨子は、第一便が到着する3か月前にGHQの日本政府に対する覚書の中に、贈られる物資の①受領、②保管、③配分・輸送、④警備にいたるまで計画が記され、これらのプロセスに対して日本政府の責任の所在が明示されました。

ララ物資第一便はクリスマスプレゼント

ララ物資第一便は1946年11月30に横浜港に到着しました。その陰には、第一便を何とかクリスマス前に届けるようにと、急いで物資を集めた北米側の温かい想いがありました。そして、ララ物資第一便の配布先は到着前に既に決まっていました。ララ物資第一便の配分は、当時一番困窮していた乳児院、児童養護施設、結核・ハンセン病などの療養施設、養老院がトッププライオリティに挙げられていました。また同時に広島、長崎の困窮者にも特別の配慮が払われました。第一便には、乳幼児約3000人分のミルクの他に、子供達、療養患者、障がい者、高齢者向けの食糧品や衣類が入っていたそうです。その後、救援物資の量が増えるのに従い、その対象は年々広げられ、やがて、ご存知「学校給食」にも配分されるようになり、戦後の学校給食を再開させる発端になりました。

ララ物資は昭和のプロジェクトXだ!

ララ物資の配分はとてもシステマティックに行われました。先ず、戦争被害者の数に基づいて、日本の都道府県はグループAからグループDまで4つのグループに分けられました。グループAには、広島、長崎の他、東京や大阪など戦争で最も多くの被災者を出した都道府県が含まれていました。これとは逆にグループDは、戦争の被害が最も少なかった県が入れられました。記録によると、第一便の配分割り当て率は、東京地区35%、横浜8%、名古屋8%、京都6%、大阪18%、神戸6%、広島7.5%、長崎2.5%、その他14%とされました。ララ三代表は、第一便到着1週間前に配分予定地に足を運び、最終的な現地調査を行いました。ローズ女史は、東京・横浜を担当し、バット博士は、名古屋・京都・大阪・神戸を担当しました。このようにして、現地の関係者と密に打ち合わせを行った上で日本全国に届けられていたのです。一人でこれだけ広範囲のエリアを担当し、各地の関係者と連携をとるということは、今ではメール1本で済むようなことでも当時はどれだけの時間と労力を費やしていたことか。想像を絶するようなプロジェクトXだったのではないでしょうか?

写真:東京中野の戦争未亡人の母子寮に衣服と布類が配給された。(昭和23年3月4日 ~ 24年3月4日) (©United Church Archives, Toronto. 2000.017P/3954. On March 4 clothing and yardgoods were distributed, [195-?].)