14 10月, 2016
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ララを支えた三人の宣教師たち②

ララ・プロジェクト成功の裏にあった三代表の連携協力

「ララ記念誌」(1952年:厚生省)に、「ララの特色の一つは、宗教をも越えた広い運動」であり、そして、この活動が上手くいった背景にはこの点もあるという記述があります。仏教もそうであるように、キリスト教にも様々な教派があり、それぞれ特異の信条と伝統があります。その違いを超えて、ララという人道支援のためにプロテスタントとカトリックから代表が任命され、こんなにも広範囲で長期間、連携協力を行ったというのは、現在の日本の状況を考えただけでも画期的で歴史的な史実だったのではないでしょうか。この三代表はお互いを尊敬し、協力しながらアメリカ本国、GHQ、そして日本政府とも粘り強く交渉を続け、カウンターパートである日本の省庁と調整し、計20名から成るララ中央委員会を運営するというマルチタスクを見事にこなしていました。また、決してテーブル上の交渉事ばかりではなく、一般市民とも接触し、現場のニーズ把握にも努めていたのです。教義的にも大きく異なる各教派を代表した三人でしたが、彼らは共通して日本語が堪能な親日家であり、戦前から永年に亘り宣教師として日本で奉仕活動をしていたという実績を持っていました。

ミカエル・J・マキロップ神父

ララ三代表に就任した初代のカトリック神父はミカエル・J・マキロップ神父でした。昭和21年6月21日、葛西嘉資(よしすけ)社会局長室に突然アメリカ人から、「ララという救済活動に関してお話したい」という連絡が入りました。そこで現れたのが、マキロップ神父とローズ女史の二人でした。二人のあまりの腰の低い態度と上手な日本語に加え、ララの吉報を聞いて葛西氏は三度ビックリしたそうです。残念ながら、マキロップ神父は、ララ代表を1年だけ務め、二代目の神父に引き継いだせいか、情報がほとんど入手できません。ニューヨーク出身であることと、カトリック戦時救済奉仕団から派遣され、在日本メリノール会に属していた方で、日本事情に精通した活動家だったという記述しか見つけられませんでした。ただ、この日記冒頭の、CWSがカナダ合同教会から入手した三代表の写真に写っている方は、マキロップ神父ではないかと思われます。

ヘンリー・ジョセフ・フェルセッカ―神父

マキロップ神父の後任として、1947年にカトリック戦時救済奉仕団の日本代表兼ララ代表に任命されたのがヘンリー・ジョセフ・フェルセッカー神父でした。同神父は1931年にニューヨークのメリノール神父学院を優秀な成績で卒業した直後、若くして宣教師として日本に就任しました。第二次大戦勃発によりやむを得ず帰国し、メリノール神学校教授職に就いたにも関わらず、戦時中、日系人が収容されている窮状を見るに忍びず、ワイオミング州ハートマウンテン転住地のカトリック司祭を自ら志願し、日系人のために物心両面の支援をされていたそうです。終戦翌年の1946年3月、率先して日本に再帰任し、京都聖フランシス教会にあって、窮乏のどん底にあった関西地区の人々の救済に尽力されました。翌年、ララ代表に任命されたと同時に、在日本メリノール会神父の長老という栄誉ある役割も担うことになりました。この頃の日本では、過労と心労と栄養不足により、肺結核をはじめとする病者が増加していたのですが、医薬品が極端に不足していました。そこで、フェルセッカ―神父は本国に交渉し、当時の最新かつ高価な米国製医薬品(ズルフォン剤、ペニシリン、ストレプトマイシン等)を大量に取り寄せ、無償供給のために尽力されました。また、さらに取り寄せただけでなく、実際の使用法の指導にもあたり、日本での製造についても尽力されました。ララ事業終了後の1952年、三代表に勲四等瑞宝章が授与された時、神父はあまりの感激に「わたしは、宣教師として神に命じられ、愛する日本のために当たり前のことをしただけなのに・・・」と目頭を抑えていたそうです。フェルセッカ―神父は、1996年に全国社会福祉協議会が主催した「ララ物資50周年感謝の集い」出席のため、当時91歳という高齢にも関わらず再度来日されました。当時の感謝会の様子を全社協にお願いしてビデオを見せていただいたのですが、これらのララの思い出を日本語で語られていた神父の姿がとても印象的でした。

写真:ララ中央委員会三代表 (United Church Archives, Tronto. 2000.017P/3942.Directors of LARA,[195-?].)