07 11月
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ララを支えた3人の宣教師たち③その2

「ララの父」G.E.バット博士

ララ代表として、またララ中央委員会の委員長として名実ともに日本におけるララ救援事業の中心的存在だったバット博士は、ララの終結を目前にして過労により突然急逝されました。死を予知しながらも愛する日本のために自分の身を削り、最後まで日本全国を飛び回りララ救済事業のけん引役として務めた真の社会事業家でした。ジョージ・アーネスト・バット博士は1892年、カナダオンタリオ州ブラックウォーター村の農家の熱心なメソジスト派クリスチャンの両親のもとに生まれました。メソジスト派の影響を受け、少年時代から社会奉仕活動に参加し、後に社会事業家となる素地を身に付けます。バット博士は、22歳の時にトロント大学ヴィクトリア神学校に入学。在学中に第一次世界大戦が勃発し、志願兵となって欧州戦線に送られ、戦争の悲惨さを経験しました。大戦終結後、しばらくイギリスにとどまり、神学と社会事業の二つを学ぶ意思を固め、ロンドン市内で社会事業とくに戦後の救済事業に強い興味を抱きました。この時の体験が、後年のララ事業に生かされることになるとは、本人には知る由もありませんでした。その後ヴィクトリア神学校に復学し、1921年に卒業後、開拓伝道で知り合ったエディス・クラークと結婚し、宣教師となって二人は来日します。

ララ以前の日本とのかかわり

来日後は、日本メソジスト教会が東京東部で行っていた社会事業の責任者として活躍しました。賀川豊彦とならび当時のキリスト教社会事業家の代表的人物として、「西の賀川、東のバット」と呼ばれ多くの日本人から慕われ、尊敬されました。バット博士は開戦後も他の宣教師が次々と引き揚げていく中で1942年まで東京に留まりましたが、戦況が悪化し、周囲からの説得に応じ、カナダへ帰国されました。しかしながら、帰国後も終戦後日本で行う救援事業計画を立て準備を進めていました。そんな中で、1943年にトロント大学から神学博士の学位が授けられました。

バット博士とマッカーサーとの親交

いくつかの資料によれば、バット博士とマッカーサーは親交があったようです。それは、マッカーサー自身が聖公会の熱心なクリスチャンだったせいかもしれません。戦後日本の民主化とキリスト教化を真剣に考えていたそうでマッカーサーは宣教師の日本赴任を歓迎していたそうです。UCCから入手した写真の中に、戦後、マッカーサー夫人から寄付の小切手を手渡されている写真がありました。ララ記念誌(1952年厚生省)によれば、「戦禍の生々しい日本へマッカーサーの招きに応じていち早く駆け付けた日本通の宣教師が二人あった。」という記述があります。その一人がバット博士でした。ララ発足よりも前に陸軍大佐の資格でやってきたバット博士は、軍用機で日本中を飛び回って実態調査を行い、本国に日本の惨状を報告し、強力な即時救援を求めました。後に、アメリカでララが発足し、彼は他の2代表と共に3人目の代表として選ばれ、彼の長い社会事業の実務経験をララ事業に活かすことになったのです。

 

写真:バット博士にMilk Fundへの寄付(小切手)を手渡すマッカーサー夫人 (写真提供:U.S.ARMY)