24 11月, 2021
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ボリビアからのお便り‐「第2次世界大戦後の日本人ボリビア移住とある牧師の軌跡」

  • この度、戦後のララ物資と日本の南米への政策移住の関係性について調査されているボリビアの日系人、佐藤信壽様からCWS Japanに届いたお便り(一部)を紹介します。
  • 佐藤様は戦後ボリビアでオキナワからの移住地を提案した神父とは、ララ物資を立ち上げた3人の代表の一人であるマキロップ神父だったのではないかと仮説を立て、調べ始めたとのことでした。
  • そんな時、ボリビアからCWS Japanのサイトをご覧になって、2021年5月にお問い合わせ下さり、それ以来、何度かやり取りをさせていただきました。

(以下抜粋)

ララの救援物資は、1946年12月の第1回配給から、1947年6月までに4回の配給が行われましたが、これらの時には、沖縄への配給は行なわれていませんでした。

ここからは、私の推測です。

 この時に、ララ代表の3人の宣教師の方々は、沖縄への配給ができないことに悩んだのではないだろうかと思います。

 1947年2月というのは、1946年4月からの沖縄民政府時代であり、1948年5月に琉球銀行が設立され、7月に琉球列島唯一の法定通貨B型軍票(B円)が定められるまで経済活動の無かった時期です。バット博士の行動は、GHQの協力無くしてはできなかった思われます。

 次に問題となったのは、沖縄救援物資を調達する元になる資金ではなかったでしょうか。ララは、民間団体であり、発送側と受入側の意志を尊重する必要がありました。

 この時に、マキロップ神父がアメリカ、南米の日本人及び日系人を訪問し、沖縄救済の義援金を訴えたと思われます。1947年6月のアメリカからの発送分から沖縄への配分も行われていますが1回目は少額で、2回目以降の沖縄への支援額が急増していることなどからの推測です。

 ではなぜ、マキロップ神父だと推測したかというと、それは、ララの3代表のうち、マキロップ神父だけが、1年でフェルセッカー神父に交代しているのです。しかし、メリノール宣教会の資料では、マキロップ神父は1947年もララで活動したことになっています。また、1948年1月のララ東京本部事務所での活動報告会議には、メリノール宣教会の日本の管区長となったマキロップ神父が京都代表として参加しています。

 では、神父は1947年6月から1947年12月までは、何をしていたのだろうかと疑問が湧きました。思い当たる数か所に照会してみましたが、不明です。

 ララ物資は、アメリカから日本への救援物資であるが、その資金源には在外日本人・日系人の寄付も大きな位置を占めていました。

 ブラジルの翁長助成氏のニューヨーク沖縄救援連盟・中村信義氏宛の1947年4月28日付書簡の中に「……北米からの通信に沖縄への物資送付の許可がまだおりていないとありましたそうで、それならば許可の通知が来てから集めてもおそくはないと云うことになり、……」【注1】とあります。

 また、同・1947年6月20日付の書簡の中で「……6月10日附御手紙及び自由沖縄本日拝受いたしました。(中略)南米から北米へ送金するよりも南米で物資にかえてニューヨークへ送りついで日本へ送る方がよいとLARAの責任者が云われたそうですが、……」【注2】とある。

ここで、6月10日直前にアメリカにいてLARAの責任者と言えるのはマキロップ神父しかいないと思いました。

(中略)

当時の日本では、GHQにより日本人の海外渡航は制限され、貿易、交通が管理されていた中でのことです。前述のように沖縄では経済活動の行われていなかった時期でもあります。しかし、ララ代表の何らかの関与があったとすれば、納得できるような気がしました。

もし、わたしの推測通りマキロップ神父の関与があったとすると、ララは、救援物資だけではなく戦後の日本の政策移住の縁の下でもあったとも言えるのではないで

しょうか。

 

【注1】「翁長助成書簡について―知識人移民の軌跡―」(沖縄史料編集所紀要(6):73-107)
【注2】同上